無目的日記昼凪

暖かい日差しの中の海、波ひとつないどこまでも続く平穏な地平線

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チラシができた オレンジ色がかわいい 朗くんはチラシに合わせてオレンジのニットを着てきていた クリスマス感ある

稽古開始、「よい争い」とは? について
「その人たちの主観でしかない」、「GOODという単語とWARという単語が合わさることに違和感がある」、「GOOD/BADが主観でしかない限り、『GOOD WAR』というタイトルで作品を上演する以上、それが「共感を求める」ものであるとおかしいと思う」など意見が出る
良い悪いで言うと、わたしは争いについてあまり「悪い」とは思っていないのだと思い知らされる 「WAR」を狭義の戦争のみと捉えるのなら「いやだな」とは思うが
朗くんが「戦争というもの自体にはいいも悪いもないと思っている」言う わたしもそう思う
「(インタビューで)色々話を聞いてみて、当人はグッドだと思っていても僕にとってはグッドと思えなくて、だから僕はグッドなウォーはないなと現状思っている。だからこそ、今回作品としてはグッドなウォーを作りたいなと思っている」とのこと

わたしは「GOOD WAR」というタイトルがとても気に入っているのだが、二つの良いなと思うところがある
まずはその言葉そのもの、「よい」「戦争」 これはわたしは自分の人生をよい戦争にしたいなと思っているから
もう一つは「GOOD LUCKになんか似てる」ところ
戦いというもの、少なくなく、当人にとっては切実なものだが他人にとってはどうでも良いことであるという側面があるように思う
グッドラックという言葉に秘められる、祈りとしての側面と、翻っての無責任さがいいなと思っている
わたしにとってのGOOD WARはわたしだけのGOOD WARで、同時に、朗くんが言ったように、他人にとってはBADであるということはままあるだろう
そう考えていて、GOOD WARとはつまり人生のことではないかと思った
人生に良いも悪いもないけど、それでもいいものにするためには戦い続けなければならないとわたしは思っている
だからわたしは戦う人を肯定するし、自分(わたし)にとってBADであっても、相手がGOODと言うのならその戦いを肯定したい
というか、みんな戦ってるでしょ!? と思っているのだ そう思っているから、その戦いを肯定したい、と思っている気がする 戦わずに生きてゆける人がどれほどいるのか

いくつかシーンを作り、今度はそのシーンの中の登場人物を考える
学芸員、警備員、美術好きな人、という言葉の中に、フェイスさん、という言葉が聞こえてきて、えっそれは何、となった
GOOD WAR、2020年の全体稽古はこれにて終了

稽古後、急いでStudio IZに帰って、村島洋一ライブオンライン『日々の毛並み』のゲネ撮影
本番は撮影できないため、わたしにとってはここが本番

舞台なんかはゲネで撮影することが多いが、そうか、演者さんが本気でやってさえくれればライブもゲネやリハで撮るってのもありなんだなと気づく
しかしライブのリハってのは大概「抜く」し、衣装も違うことが多いし、ゲネで撮ろうと思ったら演者さんの多大なる協力が必要
そもそもなぜ舞台はゲネを、ライブは本番を撮るのか
舞台は本番中にカメラマンにうろつかれると集中を削がれるから? でもそれはライブでも同じだよな 物語だと余計に集中が必要という気もするが でも「余計に」とかはないか
舞台の記録撮影は、その名の通り、作品の内容・作品があったことを記録するための撮影だから? いやライブもそうか
ライブはなにを記録しているのか ライブそのものの存在 ライブがあったことの記録 じゃあライブは作品ではないのか?
どうなんだろう 慣習でしかないような気もするが
本番のほうがとうぜんいい(クオリティ的にも、意味的にも)のだが、ゲネの方が(お客さんがいないほうが)気兼ねなく撮れるというのはあるな
同じ場所、同じ対バンでのライブは基本的に一回きりだが、公演は何回も行われることが多いので「それ」である必要が少なくて、それでゲネでいいということになるのだろうか
そういえばライブの写真はお客さんも込みで撮ることが多いが、舞台の記録写真で観客が入っているのはあまり見ない気がするな 舞台上だけを写しているというか
そうか、ライブは相互作用の(より大きく)あるもので、舞台はいちおう第四の壁があることが前提だからか
となると、ライブが本番でなければならないのは演者のやる気云々ではなく、「お客さんがいるから」になるのかな