無目的日記昼凪

暖かい日差しの中の海、波ひとつないどこまでも続く平穏な地平線

 

同居人と久々に会った気がする 喋っていると無性にうれしくなってきた
ここ二日ほど、同居人は朝早く夜早め、わたしは夕方から夜遅めまで、という感じだったのですっかりすれ違いだったようだ
眠すぎて朝の畑を欠席

RenSで作業しながら撮影 それにしても眠くて
ネクターを飲みながら、ネクターのちょっとした飲み残しを夏場の部屋に三日ほど放置していたら小蝿がめっちゃ繁殖していた、という話をしていて、それめっちゃイヤだね、と言いつつ飲み終えた缶を置いて1時間ほど作業して戻ってきたら、すごい数の蟻が集っていてゾッとした 缶はすぐに捨てて、缶の周りでうろついていた蟻たちは、申し訳ないけど養生テープで捕まえておいた

作業を終え、昼もラーメンだったのに二食続けてラーメンを食べて、少しだけ酒を飲み、アイジーに帰ってきた
2階でしばらく休憩をして漾々に降りてみると、すごい数の人で賑わっていた

わたしってホント人と喋るのがヘタクソだ、と思い、そこから共感について考えている わたしは共感が苦手だな
共感が必要な場、というか、あった方がいい場が、会話の場なのだと思う

わたしが会話が苦手なのは、まず共感が苦手、という要素があるからだと仮定
共感という心の動きがまず難しいし、共感を表明するということにも抵抗がある
次に、そもそも声を出すことに抵抗が強いのだと思う
話し出しのタイミングがつかめない し、声には情報が多すぎるから制御しきることがむずかしい
発する方だけでこうなのに、会話となると、受ける方もしなければならない
マジで情報が多すぎる 顔の筋肉の動きなどの目からの情報と、周りの環境音、声色、呼吸の間などの耳からの情報を処理するのでせいいっぱいで、会話の中身まで注視できていないように思う
わたしはほとんど雰囲気だけで喋っているのではないか

共感についてだが、対面での共感は苦手、でも文章でならそこまで抵抗がないことにも気がついた
わたしはきっと、文字は、文章は、どこまでいっても独り言だと思っている
対して声は、人に渡す・投げる物だと思っている
だからそれがたとえ真の独り言(真の独り言?)なのだとしても、わたしの耳には本質的に誰かに語りかけているように聞こえているし、文章は、メールやチャットなど、その画面の向こう側に相手がいることが分かっていようと、本質的には独り言で、それを相手に向かって投げているだけ、という気がしている
だからかもしれない 

例外として思いつくのが、プロフィール文 プロフィール文だけは、文章だけどなんか苦手で、居心地が悪いというか、気色悪いというか、対面のように所在なくソワソワしてしまう これはプロフィール文というものの性質、人にむけて自分をまず自分で定義するという性質がそうさせているように思う
SNSのプロフィール欄何かもそうだし、昔あったウェブサイトのプロフィールページとか、前略プロフィールとか、ああいうの、自意識とどう折り合いをつけるのかがめちゃくちゃ難しかったように思う し、今もいちいち自意識と戦っている
自己紹介と一緒だもんな どちらもマジで苦手だ
なんでこんなに厄介な性格をしているんだ 素直でまっすぐな人に憧れる

共感の話とか、なんだかもっといろいろと考えていて、ここ二日間ほど、隙あれば同居人につらつらと話していたのだが、もうすっかり忘れてしまったし既にめんどくさくなってしまっている 考えることもめんどうだし、自分自身のめんどうさにもうんざり
上の文章の、的を射なさ、肝心のところの周りをウロウロしている感じ、モヤモヤと煮え切らない感じにもうんざり でももう考えて修正することすらめんどうだ
こういうすぐに忘れるところ、興味があっちこっちに飛躍するところ、のおかげで深刻にならずにここまで生きて来れたようにも思う
なんのこっちゃ シャワー浴びよ