midnight web wave

いつかあの頃になる今のための、真夜中の波です

西くんの、あの妙な距離感のなさとか、今それする? みたいなところとか、デキそうでいてどことなく抜けてる感じとか、でも真っ直ぐで一生懸命っぽいところとか、苦手な人は苦手だろうけど、好かれる人に好かれるところはこういうところなんだろうなと思う かわいげだなと思った 方方でなんらかの恨みを買っている気はする

今日もUrBANGUILD 昨日の公演の上映会
生で見て、映像で見てすると、思った以上に思うところがあった

わかることは、人は目を凝らすということ 見えないものを見ようとするし、想像する
見えなくても「気配」がある

スーツを着た男性、その身振りは苦悩している人にも満員電車に揉まれる人にも見える

わたしはモネの有名な絵(日傘を差す女)とその逸話を思い出した
がさがさした不明瞭な描写が油絵のタッチを思い起こさせたのかもしれない
この不明瞭な絵に、記憶を重ねて見ている
でも確かでない 記憶はだんだん不明瞭になってゆくし荒れてゆく わからない部分を、人は都合よく想像で補完する
だからネット恋愛は燃え上がりやすいし、マスクしたひとは美形に見えるし、過去は美化される

もうひとつ思い出したのが、昔のビデオ
中高生のころ、スカパーの舞台チャンネルみたいなものを購買していて、好きな劇団の公演をせっせと録画していた
あるいは、よくないことだろうけど、ダビングのダビングを購入していた
それは、この映像みたく、暗くて、がさがさで、せっせと想像力を働かせて見るものだったな
わたしが暗転中の場面転換が好きなことにも通ずる気がする

はじめのほう、暗くて見えなかった舞台がだんだん見えるようになってきて、編集意図に気づく

この試みはいい、
映像だけ見てどう感じるのかは不明、ただし二日間通して見ることに意味を感じた
これはまさに記憶と記録の描写ではないか
二日間診てもらったほうがやっぱいいな 昨日来ていた人は今日来ていないのが残念だった

人というのは親切だな
想像力がある 想像しようとがんばる
でもわたしはその想像力を信用しきれていない 制作するとき、この両側の思考の狭間で停止してしまう

帰りにふくい農園の葉にんじん? と茎ブロッコリーを買ったのだが、葉にんじん、葉っぱが長くてとうぜんリュックの入らないので、ハートランドのビールと一緒に片手で持ちながら木屋町を駆け抜け、電車に乗って西京極まで行った こんなふうでも誰からも声はかけられない

西くんが「また明日、って言えるのめっちゃいいな」と言っていたのが頭に残っている